「わたしの2001年→2020年」(中編)

藤井哲也

2020年01月25日 09:30

◆順調に事業拡大していた矢先のリーマンショック
 最初は京都リサーチパークの1坪オフィスで始めた事業も、事業の拡大とともに社員も増え、京都商工会議所地下室のインキュベーション施設、その後は念願の自社オフィスを京都市中京区に置くことになった。徐々に会社も大きくなりアルバイト社員も含めて10人を超えたころ、職業訓練の委託事業を始めることになった。世間ではリーマンショックによって徐々に失業者が増え始めていた。基金訓練(緊急人材育成・就職支援基金)と呼ばれたこの事業を実施するにあたり、さらに研修ルームを借り上げ、大きな投資を行うことになった。不景気の時こそ成長のチャンスと思っての投資だった。
 おかげさまで職業訓練事業も順調に回り始め、また東京オフィスも開設しこれからというタイミングで、2009年頃だったと思うが、一気に雇用状態が悪化し、また委託訓練事業者の乱立によって収益率も低下してきた。なんとか単体で黒字事業だったものの、初期投資を回収することはできず、その他事業からカバーしながらなんとかやりくりしてきたものの、それもままならなくなり、ついに委託訓練事業から撤退することにした。約2年少しこの事業をさせて頂いたと思うが、その中で多くの同年代の失業者や求職者と出会うこととなり、今から振り返ると私にとっても大変貴重な機会だったように思う。同時に東京オフィスもこのころ閉鎖し、本業である就労支援事業と採用コンサルティング事業に特化して、ほそぼそと事業を存続させることでいっぱいいっぱいとなってしまった。
 時に現預金が一けた台になることもあり、会社経営者として冷や汗も書いたことが一度や二度ではなかったが、なんとか持ちこたえることができ(その中では申し訳ないことに人員整理もせざるをえなかった)、会社は存続することとなった。

◆2011年。政治行政への道
 事業をしていてもその時々の景気に大きく左右されてしまう。どうすれば自分が考えるような就労支援に取り組むことができるのかを塾講する毎日が続いた。そうする中で思い浮かんだのは、政治行政への道であった。京都市が実施する雇用対策事業でも大手企業傘下の人材サービス会社にことごとく負けていた。コンペではいい評価なのだが、最後にはやはり財力の面で不安があると。そればかりはもうどうにもならない。いまから数千万円や数億円の資本を投入できるのであれば何も問題はなかったが、それは無理筋の話であった。
 会社経営をしていても、地域の雇用政策に与えられるインパクトはいつまでたっても変わらないかもしれない。それならば政治家になって行政を動かすことができるのであれば、自分の思い描く雇用政策を提言し、大きな予算と人員を活用して、よりよい政策推進に導くことができるのではないかと考えた。2011年4月に地方統一選挙が迫っていた。政治家への道を考えたのは2010年夏くらいだった。ちょうどそのころ、みんなの党という経済人や構造改革を訴える人が中心に集まって結成された政党ができて、参議院選挙でも躍進していた。この政党からチャレンジしようと門をたたき、そして2011年4月の選挙に立候補した。当初は京都市会も考えたが、いろいろと悩んだ挙句、自分の地元への思いが強いことを知り、滋賀県から出ようと。さらに党の中での調整により滋賀県議を目指していたものの、市議からスタートすることとなった。なにはともわれ多くの方から支持を頂戴し、私の政治家活動が始まった。
 都合2期8年、このあと地方議員を務めさせて頂くことになった。大津市という町は京都市の隣にある琵琶湖の西南方面に位置する南北に細長い自治体である。人口は34万人。この町で市議会議員として、まずは地域の経済活性化、それによる雇用創出を目指して仕事に取り組むこととなった。1年目が終わるころ、市長が自民党系から民主党系に代わることになり、ここからが大変だった。地域経済団体との関係も悪く、この市長は2期目選挙では大津商工会議所が表立って反対し、対立候補を立てられる始末だった。いじめ自殺事件もあり、部下である職員のマネジメントにも難があって、教育長や副市長が相次いで辞職するという事態に陥った。2期目も同様で市民との対話を重視するという姿勢がみられず、挙句には署名さえも受け取り拒否をするというわがまま放題。結局、何がしたかったのかといえば、「もったいない」という考え方なのだろう、とりあえずお金は使わない、そして人件費は削り、必要である公共投資(消防署建替えや市庁舎改築)も行わなかった。合併特例債という国が70%の財源を負担してくれ、さらに25%の起債ができる特別な事業債があったものの、これを他の補助金が使えるにもかかわらず、ごみ焼却場の整備や中学校給食センターの整備に充ててしまい、3期目は立候補せず引退ということになった。このあと残された大津市は大きな財政出動をせざるを得ない状況で大変な事態になることが目に見えている。

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